戊辰戦争

戊辰戦争

戊辰戦争(ぼしんせんそう、慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年))は、王政復古で成立した明治新政府が江戸幕府勢力を一掃した日本の内戦。1868年の干支が戊辰だったことからこの名で呼ばれる。この戦争の結果、明治政府は薩摩藩・長州藩の出身者が主体となり、うねる時代のなかで日本は近代的な中央集権国家への道を歩んでいった。

戊辰戦争は、徳川慶喜の処分の問題に起因する鳥羽・伏見の戦いの段階、松平容保の処分の問題に起因する北越戦争および会津戦争の段階、旧幕府勢力が最後の抵抗を試みた箱館戦争の段階の3段階に区分できる。

鳥羽・伏見の戦いの段階では、石高や兵力数では旧幕府軍が優勢であり、新政府軍では天皇を連れて京都から撤退することも検討していたと言われる。しかし、旧幕府軍は肝心の徳川慶喜自身が開戦に消極的であったこと、部隊間の連絡の不備や戦術戦略の初歩的なミスなど長年の太平による経験不足が目立ったこと(これは政府軍も同じであるが)などで主導権を得るに至らず、そして錦の御旗の登場で恐慌状態に陥り、諸藩の部隊が次々と寝返るなどしてついに瓦解し大敗。以後は徳川慶喜が降伏恭順に徹したこともあって、戦争終結までほぼ一貫して新政府軍の優勢のうちに戦いが進められた。「近代化を進めた新政府軍に対して、遅れた旧幕府側の軍隊が対抗できなかったために敗れた」という説もあるが、実際は旧幕府軍も早くから軍隊の西洋化に取り組んでおり、新政府軍に対して劣っていたとはいえない(特に海軍は旧幕府軍のみが持っていた強力な戦力であった)。また、開戦時における戦力差は圧倒的であり、旧幕府軍の稚拙な軍事指揮がなければ新政府軍では太刀打ちできなかったという見方も強い。

新政府軍は主にイギリスから、旧幕府軍は主にフランスから、軍事教練や武器供与などの援助を受けていた。しかし両陣営とも外国の軍隊の派兵を要請することはなかったため、欧米列強による内政干渉という事態は避けられた。

なお、両陣営の呼称として、新政府側については官軍、西軍、薩長軍、旧幕府側については賊軍、東軍、(奥羽越列藩)同盟軍といった呼び方もなされるが、本項目では新政府軍と旧幕府軍に呼称を統一する。